ご開山から現在まで約400年の歴史
未来に向けて日々進化し続ける寺として

当寺は、横浜市の緑区に位置しており、緑地や農地が豊富に広がっています。近隣には恩田川が流れ、その周辺には昔ながらの里山の風景が広がっています。寺は小高い場所に建っており、本堂北側からは穏やかな田園風景を一望することができます。
当地にはかつて慈性寺という寺がありました。後に新たな寺を建立しようとした際、寺跡から古い巾着が発見されました。その巾着は金銭などを入れる袋であり、「宝の袋」と見立てられました。そのことから、寺は「宝袋寺」と名付けられたと伝えられています。ご開山から現在まで約400年の歴史があります。当寺は、檀信徒の皆さまや地域の皆さまに支えられて、現在に至るまで歩みを進めてきました。

近年では、葬儀や法要などでご縁のあった方々からもお寺に対するご要望やご相談を受ける機会が増えています。現代の人々にとって、どのようなお寺の在り方が望まれるのか、またお寺がどのようにお役に立てることができるのかを考えながら、未来に向けて日々進化していきたいと考えています。

寳帒寺
住職安田正克
本堂

近世

寳帒寺は、慶長年間(1596~1615)に武蔵国都筑郡十日市場町村に創建された曹洞宗のお寺です。場所は、村の東北隅(山崎)の寺原に建てられ、約400年にわたって法灯を掲げてきています。お寺の東方には、恩田川が西方から東流し、流域は近世初期からの水田地帯が延々と続いています。また、お寺が建つ場所一帯は、原始・古代から中世へと連綿と人々が住み続けてきた痕跡が土器片・横穴古墳群・須恵器・五輪塔などの歴史遺物の出土によって確認されています。日当たりがよく、緑豊かで湧き水にも恵まれた好環境であったと思われます。

お寺は十日市場町村を知行した初代の殿様鈴木喜左衛門重成の釆地(領地)に、開山頭堂長察大和尚(大林寺第3世)によって創建されました。近世初期に恩田川流域における曹洞宗の教線拡張によって、新寺として創建されたと考えられます。
山号を八幡山、寺号を寳帒寺と号しています。ご本尊は木造の聖観世音菩薩坐像を安置しています。長津田村の慈雲山大林寺の末寺です。寺号の「寳帒」については、現在のJR横浜線「十日市場駅」南側付近に慈性寺と呼ばれていたお寺があり、後に廃寺となり、この寺跡からたまたま古い中着を掘出したことから「宝の袋」という意味をもって寺号として名付けたといいます。

  • 顕堂長察大和尚顕堂長察大和尚
  • 運慶作 本尊 聖観音菩薩坐像運慶作 本尊 聖観音菩薩坐像

客殿の後背地(現・本堂付近)には、南西向きに八幡神社(覆屋は3.6メートル四方)が祀られていました、祭神は応神天皇(誉田別尊)の像でした。鐘楼は客殿に向かって左側にあり、元文5年(1740)に鋳造された焚鐘が下げられ、時を知らせ又は除夜の鐘など諸々の行事に打ち鳴らされてきました。近世後期の客殿は、西向きに建つ小規模な建物でした。なお、天保14年(1843)当時の村の戸数は50戸で、人口は推定で約250人を数える小さな農村でした。これらほとんどの家々が当寺の檀信徒でした。また近世中頃の享保年間(1716~1736)に鶴見川及び恩田川流域で薬師如来像を安置する寺院やお堂をもって開設されたとする武相寅歳薬師如来霊場の第25番札所となっています。12年に1度の寅年に御開帳され、田植え前の春になると白装束の巡礼者が御詠歌を唱えながら御参りに訪れたといいます。明和8年(1771) の夏は、前年に続けて大凶作となり、村民は稲作に大きな影響を受けたため、当寺第10世玄山活道大和尚は霧ヶ池に弁天祠を建てて、降雨祈願をおこないました。文政4年(1821)4月も日照りが続き、雨乞いを行なうなど、村民のために降雨祈願をおこなってまいりました。

近代

明治期は第26世禅明代の時代です。禅明大和尚は、明治6年(1873)に多摩郡三輪村(町田市)の広慶寺住職を務めていたが、同村内に創立した小学校「研精学舎」の教員でもあった。明治13年(1880)に都筑郡在田村法道寺から当寺に転住しました。この住職は、関雲の号で揮毫をよくし、今でも町内や近隣の町に碑が伝わっています。川和村の八幡神社境内には、禅明大和尚が発起人となって立てた「征清記念碑」があり、宗教家・教育者・書家・俳人など多彩な顔をもって地域活動をおこなっていました。明治14年(1881)11月には、お寺に入った賊の放火によって本堂と庫裏を焼失し、諸記録も鳥有に帰しました。翌年には本堂を再建しました。明治18年(1885) 1月に山岡鉄舟直筆「古寳帒」が献納され、現在本堂の正面長押に掲げてあります。

  • 山岡鉄舟直筆の寺号「古寶帒」山岡鉄舟直筆の寺号「古寳帒」

現代

宗禅代の昭和36年(1961)には、先の太平洋戦争時に供出し鐘がなかったため新たに鋳造されました。ことに高度経済成長期には、檀信徒らの助長を得て伽藍整備が進められました。昭和49年(1974)の寅年薬師如来霊場の御開帳に併せて薬師瑠璃光堂が新築落成しました。
昭和56年(1981)) には、区画整理事業が進捗していた霧が丘地区で事業が竣工し、併せて同地区内に当寺の境外堂である「霧ヶ池弁天社」が落成しました。平成5年(1993) 5月23日には、永平寺第77世丹羽廉芳貫首をお迎えして本堂並びに客殿と庫裏の落慶法要を執り行いました。

  • 釣鐘(現在)釣鐘(現在)
  • 霧ヶ池弁天社霧ヶ池弁天社
  • 武蔵遼遠武蔵遼遠

檀信徒の皆様とは、春・秋のお彼岸、花まつり、施食会、お盆の棚経、除夜の鐘など諸行事を通じてご供養・交流を図っております。また現在、合祀の永代供養墓「武蔵遼遠」を整備するなど、新たな歩みを着実に進めています。なお当寺の住職は、開山から現在に至るまで30世を数えています。

合祀墓

十日市場町
町名の由来とは

中世の鎌倉道伝承がある神明下(台)付近では、毎月十日に市が開かれていたと伝えられ、今日の地名「十日市場町」の由来とされています (新編武蔵風土記稿)。近世には、「武蔵国都筑郡十日市場町村」でした。町の北方を東西に流れる恩田川流域には水田地帯が広がっていますが、近世初期には恩田村地内の恩田川に北門堰が築かれ、十日市場町村ほか下流の6ヶ村がこの用水を使い稲作を行ってきました。河川改修前は蛇行がひどく、寳帒寺がある東端の山崎付近で最も蛇行していました。戦前、日照りが続いた時には、村民が竹筒を持って相模の雨乞い神で知られる大山へ水を貰いに行き、寳帒寺の釣鐘にその水をかけて祈願を行ったといいます。

霧が丘の弁天様の伝説

01霧が池の大蛇と洗足池の大蛇のお話

霧が丘4丁目に祀られている大弁財功徳天社付近には、霧が池という池がありました。
昼なお薄暗いほど深く木々に覆われ、また菖蒲の花が咲き乱れるなど四季折々の美しい風景も見せていました。池には雌の大蛇が、東京大田区の洗足池には雄の大蛇がそれぞれ住んでいたそうです。ある時、村人が馬を曳き江戸に出かけた帰り道、美しい婦人に声を掛けられました。
「十日市場町村の辻まで馬に乗せて入って下さい」
婦人は辻に着くと、御礼にといって小判を3. 4枚くれたとのことです。村人は大喜びで家に持ち帰り、神棚に上げておいたところ、小判は蛇のウロコになっていたそうです。
「霧が池の大蛇が洗足池の大蛇に逢ってきたのだろう」と村では語り継がれています。

02霧が池公園に祀られた杜のお話

深い森に包まれた霧が池の周りに田畑がつくられ、村人たちも池に姿を見せるようになった頃のこと。
夏の昼下がり、池の大蛇が岸辺で昼寝をしていると、丸太と間違えた村人が上に腰を下ろしてしまいました。驚いた大蛇は、もうこの池には住めないと悟りました。ある夜、大蛇は女性の姿となって、同じ村の寳帒寺住職の夢枕にあらわれ、自分のために石の社を建てて欲しいと訴えたそうです。寺では願いを聞き入れて、池のほとりに石の社を祀りました。現在の社(石廟)は明治8年(1771)に建立したもので、その側面に「干ばつが2年も続いた。このため雨乞いをしたところ、水に恵まれ豊作となったので、感謝のお祝いをして石を建てた」という意味の文が刻んであります。霧が池は宅地造成のため、昭和47年2月に清めの儀式が行われ埋め立てられましたが、社は霧が池公園の一角に今も大切に祀られています。

  • 霧が丘 大弁財功徳天社

    当寺の寺領である霧ヶ丘には大弁財功徳天社があり、霧が丘住宅公団、 地区守護神としてお祀りしています。

    開門日
    毎月1日と15日、正月の1日~3日